あなたは、お笑い芸人のことが好きかもしれません。
お笑い芸人は、芸人にもよりますが笑わせてくれ、楽しい気分にもさせてくれて、大変ありがたい存在です。
とはいえ、あなたはお笑い芸人ってどういったものなのか?について突き詰めて考えたことはあまりないのではないでしょうか?
そこで、持論にはなりますが、それについて突き詰めて考えた内容をあなたにお伝えをしたいと思います。
お笑い芸人って何者?
お笑い芸人は、人によって評価はまちまちになるとは思いますが、お笑いは立派な職業になりますよね。
中には”人を笑わせるのなんて職業とは言わないよ”って言う人もいるかも知れないです。
えっそれって職業なの?
でも、人を楽しませることは今に限ったことではなく、かなり昔からそれが至上の価値として高く評価されてきた歴史もあります。
たとえば、遊園地、サーカス、ミュージカル、パントマイムなどなどがあります。
おそらく、さきほどお笑いが職業としていかがなものと考えている人も、今挙げたものについて誰も職業ではないとは言わないのではないでしょうか?
今挙げた職業とお笑いとの違いはないのにも関わらず、お笑いについて年齢が高くなるほどそうしたお笑いについての評価を低く見積もってしまう傾向があります。
その背景には、その世代の育った時代背景というものが多いに関係しているのです。
きちんとした会社で、その会社に一生勤め終えることが美徳だという固定化されたよくありがちな価値観がそこにはあると思います。
つまり、終身雇用で一つの会社に勤め終えるということが、真面目ですばらしいといった具合になるでしょう。
もちろん、一つの会社に勤め続けることはそれ自体立派だと、個人的に思います。
だからといって、転職をしたり、業種や活動内容などを変更したりすることも、それはそれで立派だと思います。
今日社会の変化のスピードが凄まじくなっているこの最中でもはや終身雇用といったものもかなり限界を迎えていることも事実なのです。
なので、職業に対してランク付けすることそもそもが、的を得ていないとんだ見当違いになるということです。
また、どちらかと言うと社会的に認知度の高い有名な職業ほどランクが上に来る傾向があるのではないでしょうか。本当は、そこには優劣なんてものは存在しないにも関わらず、なぜかそうした傾向が見受けられます。
話がそれたので、元に戻していきます。
お笑い芸人もまた、当初は漫才その主な活動内容としていたものの今はM-1グランプリといった大会でもなければ、テレビ番組では漫才そのものをすることもなくなってきていますよね。
お笑い芸人の仕事の主なものとして、バラエティ番組でのトークになってきています。
漫才とトークではおしゃべりといった形式は同じではあるもののその他の内容面についてはかなり違いがあります。
たとえば、漫才はシナリオに沿ってなされるお芝居みたいな色彩があるのに対して、トークはエピソードを話して落ちみたいなものを表現していくものになります。
前者は、予め作ったシナリオ通りにするものに対して、後者は、その場その場で話の流れや雰囲気に合わせて半ばアドリブでするものになります。
後者では、このようなトークというものを通じて、視聴者に対して、特定のメッセージを伝えたり笑いを誘ったりすることがその主眼になるのです。
そして、視聴者は、それに触れて一時的ではあるにせよ、日常生活での漠然としたマイナスの感情などの負の気持ちを忘却させてくれるありがたいものとして、お笑い芸人のトークを視聴しているような感じがします。
そうした意味では、お笑い芸人は、視聴者のやり切れない気持ちなどを一時的に忘れさせてくれるなじみの深い空気のような身近な存在なのだ!
本来ならばテレビといった非日常の世界を、あたかも視聴者にとって日常の世界だと錯覚させてしまうほど、身近な存在だということなのだ!!
お笑い芸人の活動の主流はこれからは・・・
今のところお笑い芸人の芸を見ているメディアとしては、おそらくテレビが多いのではないでしょうか?
というよりは、テレビというテレビの番組の大半がバラエティ番組であり、バラエティ番組以外の番組であってもお笑い芸人が出演していたりもするくらいに頻繁に登場しているのが現状だからです。
こうした状況から、お笑い芸人の存在を社会的な位置づけとして、あえて表現すると、お笑い芸人=インフルエンサー?といったものになるのではないでしょうか?
昨今では、AbemaテレビなどのインターネットテレビやYoutubeを視聴している人が増えてきているものの、現状ではまだまだテレビの社会に与えている影響力はかなり強いことに違いがありません。
お笑い芸人のテレビでの露出度が高いことから、心理学上でもその効果が見込まれているザイオンス効果も相まって、よりお笑い芸人の社会に与える影響力が強くなっています。
こうした意味では、お笑い芸人は、今のところインフルエンサーといってもいいほどの存在ではないでしょうか?
また、インフルエンサーとしてその影響力が強ければ強いほど、メッセージ性もそれに比例して強まります。
このメッセージ性と言うものを単純化して言うと、テレビ的な表現だとキャラクターというものになるでしょう。
キャラクターというものが強いお笑い芸人は、テレビというメディアがなくなっても、その存在価値は決して揺らぐことはないのですが、あまりキャラクターが強くなくクセのないお笑い芸人は、テレビというメディアとその運命を共にすることになります。
ただし、ここでは注意点があります。
それは、このキャラクターというものが作り物でただ演じているだけの偽物では全く意味がないということになります。
偽物のキャラクターはダメ
もし仮に、本来の自分とは違った偽りの自分を演じているだけのお笑い芸人がいたとしたら、なおさらこれからはもっとマズイことになるでしょう。
なぜなら、SNSなどによって、そのお笑い芸人の日常がありとあらゆる人から監視されている状態にあり、すぐさまその実態がバレてしまうからなのです。また、それがバレることによって、そのお笑い芸人は人としての信用もまた同時に失うことにもなってしまうからです。
これまでは社会的な証明が重要視された社会であったのに対して、これからは個人的な信用が重要視された社会になってきているからなのです。
個人的な信用を失うことは、すぐさま社会からは受けいられない人としてある種の審判を受けてしまうことになります。
一度失った信用を回復することは、ほぼ不可能に近いことからも、ヤバいということなのです。
たとえば、よく会社が不正をして公式な謝罪会見で「信用を回復するために全身全霊をかけていきます」といった謳い文句を言っていますが、その後の状況を見れば分かるように、そうはなっていないのが現実ですよね。
信用を獲得するためには、かなりの期間と努力が必要ですが、信用を失うのは一瞬だということからも明らかです。
認知度が高いことだけでは、これからはそれ自体そんなに価値がなくなります。これまでは、テレビがメディアの主流として長い間独占してきた歴史から、タレントや芸能人というものが重宝されてきただけである。
いま既にタレントや芸能人といったものがブランドとして価値がなくなってきている。カリスマだのといった形のないイメージだけの価値といったものが、これからはどんどん下がっていく。
これからは、自分で自分と言うものが原寸大でどんなキャラクターであるのかについて、どんどんリアルなものとしてアピールしていくのが主流になってきている。これがこれからのお笑い芸人の活動の主流になってくるかと思います。
ここではお笑い芸人についてお伝えをしてきましたが、この話は何もお笑い芸人だけに限った話ではないのです。余談なのでこの話についてはあえて広げません。
お笑い芸人が今後どうなっていくのかについての未来予測
これからあなたにお伝えをするお話は、あくまでも個人的な未来予測にはなるので、そこをご了承の上で読み進めて見て下さい。
職業としてのお笑い芸人という位置づけはなくなっていくというのが持論になります。
どういう事なのかと言うと、今はお笑い芸人というものを職業として活動していますが、それを職業として活動するのではなく、それがメインではなくオプション(サブ)として行っていくことになると思います。
今のところはお笑い芸人は、漫才やトークをすることによって、その対価として報酬を得ていますが、今後は報酬を得るとしても漫才やトークをするそのことの対価としてではなくなるということなのです。
職業としてのお笑い芸人としてではなく、個人として価値があるかどうか如何によって、何らかの報酬を得ることが出来るということを意味します。
個人としての価値を簡単な一言で具体的に表現すると、さきほどの章でお伝えをしたように「信用」というものに尽きるのだ!!
「信用」からでしか社会的に価値を見出すのが困難な状況に差し掛かっています。これまでのように物に対して価値を見出していく物至上主義から、精神的なものに価値を見出していく精神至上主義へとシフトがされていく流れが既に訪れて来ています。
日本だけに限って言えば、物質的にはもう既に満たされた社会の状態にあります。たとえば、マイホームやマイカーなどのような高価なものでさえ、一家に一台というものがほとんどの家庭では当たり前のようになっています。
中にはそうではない方もいられるかもしれませんが、どうみても餓死している人がいるような国からすれば、物質的にはかなり満たされた社会であることには異論はないでしょう。
あなたも感覚的にこう思ったことはありませんか?スーパーなどの買い物をしている時に、商品を選んでいる時に「この商品とこの商品とはどう違うの?」みたいな自問をした経験がありませんか?
この自問こそが、物質的には満たされていることの証でもあります。たとえば、チョコレートを選んでいるとします。「この板チョコとこの板チョコとではどこが違うの?」って、裏を返せば、どの板チョコも明らかな違いがないからこそ、そういった自問が生じるのです。
物質的には満たされていない社会だとしたら、「どうしたら板チョコが手に入るの?」ってなりますよね。板チョコがあるのかないのかのレベルでの話になって終わります。ましてや種類についての話にはならないのです。
この板チョコをお笑い芸人に例えると、今テレビで活躍している大勢のお笑い芸人の状態になります。言って見れば、キャラクターというものが弱いお笑い芸人は、横並びにされた沢山の種類の板チョコの一つになってしまい、視聴者に選ばれるにしても迷ってしまうほどの消極的に選ばれるに過ぎない存在になってしまうのではないでしょうか。
この現象は、テレビだけではなくこれから存在してくる新たなツールや媒体であっても同じように当てはまるのではないでしょうか。
話がとんでしまったので、元に戻していきます。
これまでは際立った周りとは違って目立った板チョコが、「とりあえず目についたからそれを選んでおけばいいか」と思って消極的にそれを選んだ視聴者を釘付けにしてきましたが、これからはそうではなく、積極的に選ばれた板チョコのみが選ばれ、その結果その他の板チョコは全く選ばれなくなってしまうと思います。
積極的に選ばれる板チョコに必要不可欠な要素が、「信用」というものになるのだ!
つまり、「信用」のない板チョコは、いくら味が美味しくても、いくら値段が安くても、いくら商品として目立っていても決して選ばれることがないのです。
あなたは、こう思ったかもしれません。「いま現状で精神至上主義に社会がそうなっているとは思えないと」そう思ったかも知れません。
タレントのスキャンダルがありますよね。たとえば、お笑い芸人の~が未成年と行為に至った(芸人さんの名誉のためあえて名前は伏せておきます)とのスキャンダルがありました。確かに、軽犯罪行為に当たり、社会的に悪い行為をしたことに間違いはないのですが、その芸人さんに対するバッシングって物凄かったですよね。
テレビの視聴者にとって、全く接触機会のない芸人さんのことは自分との関係において全く関係がないにも関わらず、その芸人さんに対するバッシングって凄まじかったのが現実です。
以前だと、タレントのスキャンダルはスクープとして、笑い話のネタとしてかえって知名度を上げるために効果的な手段でさえあったのに、今だとスキャンダルがきっかけでタレント生命を奪われてしまうことになる可能性が高い。
この違いをお節介焼きが以前の社会よりも増えたとも言えますが、持論では、視聴者が「そのお笑い芸人は、~だと思っていたのに、~ではなかったの?」と疑問視し、それに対して(一方的で勝手ではありますが)その視聴者なりの「信用」を裏切ったことに対してのバッシングだと考えています。
もし仮にいま現状の社会が物至上主義にあるのであれば、「お笑い芸人は面白くてなんぼ」といったような物差しで測られないとおかしいように思えます。
だって、そのお笑い芸人が未成年者と行為に至ったことと、そのお笑い芸人が面白いかどうかについて両者との評価についての因果関係がないからです。
つまり、バッシングの対象がお笑い芸人という職業の活動内容についてではなく、そのお笑い芸人という特定の「人」について、評価をしていることの表れだからです。
そして、この「人」についての評価の対象は、抽象化すると「信用」ということになります。このことから、いま現状で精神至上主義に社会がそうなっていると言えないでしょうか。
処世術に長けた八方美人といったある意味の誉め言葉が、これからはその言葉が「信用」のない価値のないけなし言葉として用いられてくるでしょう。
「信用」を得るのには、時間と努力が必要となります。とすれば、これからの精神至上主義社会では勤勉で真面目な人ほど、評価がされていく可能性が高いことになるのだ!!
こうした精神至上主義社会は、公平な社会だと言ってもいいかもしれません。正直者がバカを見ることも少なくなってくるでしょう。個人の評価が実寸大でなされる妥当な評価がされる社会になっていくと思っています。
こうした時代の流れから、お笑い芸人もまた、芸を磨くというものよりも増して「人」を磨くことの方が重要になってきます。これまでの芸は生計を立てるためにあったものが、お笑い芸人としての生きざまを映し出した結晶体としての「人」として、自分が何者であるのかを表現する手段として芸を用いていくことになっていくのが主流になるかと考えています。
そうだとしても、生計を立てられなかったら生活が出来なくて芸どころではないかといった疑問を持ったかも知れません。
実は、これからは生計が立てられなくなって困ってしまう可能性もかなり少なくなっていきます。そういった社会の到来が来る可能性がかなり高いことから、その心配はないのです。
話がそれてしまうので、端的にだけ説明をしていきます。いまの日本政府で検討されているベーシックインカムの導入であったり、AIによる最適化された社会でのコストの最小化の実現がその理由になります。
ベーシックインカムとは?
まず前者について、簡単に言うと、生活保護費の需給を国民の頭数で一律に定額を支給していく制度になります。国会での相場は国民全員に最低限の生活が送れるだけのおカネを配るとなれば、7万円が妥当というのが多数意見になります。会社を辞めない額で、同時に最低限の生活の助けになるぎりぎりを考えると、7万円かなというのが根拠だそうです。3人家族だったら、7万円×3人の21万円。4人家族だったら28万円もらえることになります。
どうでしょうか?この金額の評価については様々ではありますが、ただ餓死しない程度に生きていくだけでよいといった割り切った考え方からすれば、家族で暮らすことを前提に、仕事をしない状態であっても何とか生活は出来るのではないでしょうか。
AIによる最適化された社会でのコストの最小化の実現
後者について、人工知能がスーパーコンピューターを超えて、ありとあらゆるものが最適化されてエネルギーの無料化、(不老不死、不労社会の実現、戦争がない世界の実現)を可能とするものになります。エネルギー効率というものがほぼ100%になり、発電と蓄電との両方が循環して半永久的になされていくシステムが実現していくというものになります。その結果、エネルギーの無料化が実現されるといったものになります。
いまの社会からすればベーシックインカムで支給されるであろう生活費が安いようにも思えますが、これとエネルギーの無料化などをセットにして見れば、理論上そんなに絵に描いた餅の話にはならないのではないでしょうか。
以上が、これからは生計が立てられなくなって困ってしまう可能性もかなり少なくなっていき、そういった社会の到来が来る可能性がかなり高いことから、その心配はないことの根拠になります。
まとめ
これを前提にすると、お笑い芸人もまた、芸を磨くというものよりも増して「人」を磨くことの方が重要になっていき、これまでの芸は生計を立てるためにあったものが、お笑い芸人としての生きざまを映し出した結晶体としての「人」として、自分が何者であるのかを表現する手段として芸を用いていくことになっていくのが主流になるかと言えるのではないでしょうか。
お笑い芸人は、仮に「人」として成長できたとしたら、芸を表現手段として、自分の人となりを表現していき、強いては実寸大の自分という「人」なりを上手く表現できたのであれば、自ずとそれに触れた人から感謝され、その対価となる何らかの報酬を得ることも可能である。
これまであなたにお伝えをしたお話の流れから、お笑い芸人が今後どうなっていくのかについての未来予測が、職業としてのお笑い芸人という位置づけはなくなっていくという持論に至った道筋になるのです。
長々とかなり踏み込んだ持論にはなりますが、何もお笑い芸人の話に限ったものではなく、今後の社会全体の未来予測につながるあなたにとっても身近で大切なお話になるので、このお話を参考にして今後のあなたの将来や未来像を描いていくことになれば嬉しい限りです。
ここまで、じっくりとお読みいただきありがとうございます。
最後に、あなたに質問です。仮に、生活費のためだけに働く必要がなくなったら、あなたはどう思うでしょうか?この質問に答えることが、あなたの今後の未来像を描く指標に繋がると思うので、少し時間を取って考えて頂けたらいいと思います。
では、またおあいしましょう!
愛と知恵で溢れる
幸せの向こう側へ
くまおう
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