今日は、生と死とは、一見すると両者が対極にあるものだと思われがちなのですが、実はそうではないし、それに気づかないと、生を充実させることは困難になるかもって話をしていきます。
えっ、生の反対語は、死であると広辞苑にも載っているのに、くまおうは何を言っているのって思ったのではないでしょうか。
言葉や概念って、広辞苑において数学などの数字と同じように形式的に確定されるものなので、その言葉の意味に隠された背景や文脈といったものは捨象されたものになります。
なので、実は、言葉もまたペーパーテストなどでの言葉の概念では、そっくりそのままその性質がピタリと当てはまる数少ない例外的な場面だと言えます。
ところが、言葉がこういった画一的に用いられることはあまりないのが現実なのです。
例えば、作家ごとに、その作家個人の独特の言い回しなどがあったりするじゃないですか、かといって、その言い回しがダメかと言えばそうではないですよね。
このように言葉は、生きていて色々な意味や表現に用いられて必ずしも、一義的な意味に用いられるとは限らないということになります。
なので、広辞苑に反する意味になるということが、そんなにもおかしなことではないと分かっていただけたのではないでしょうか。
話がそれてしまったので、ここで話を元に戻させていただきます。
では、くまおう生の反対語が死でなければ、どういうことなのか意味が分からないよってなると思います。
ここで、それについて、お話をさせていただきます。
結論から言うと、生の延長線上に死があるということになります。
ようは、生と死とは表裏一体のものであって、生の中に死が含まれているということを意味します。
あなたが今生きているという状態それは言うまでもなく、生ですよね。
でも、この生という状態も今この瞬間において、そこにあるから、それが生という概念が存在するのであってこの状態は永続的なものでも、安定したものでもないのです。
あなたは、今自分は生きていると言葉にしたり、実感したりした時、その瞬間のその一瞬において、それが存在するものとして成立しているのであって、それを普遍的なものとして捉えることはできないのです。
とすれば、あなたは、この生ということを口にしたり、感じたりしたその時のほんの一瞬においてしか生というものを自他ともに表現をすることができないということになります。
現代社会では、死というものをリアルに感じられにくいシステムになっているので、あたかも生という状態が永続するかのように錯覚をしてしまいがちになります。
そこでは、死という概念が希薄になってしまい、半ば生という状態が当たり前で、何も特別なものとして意識すらしていないことも起こり得るのです。
人間は、永久に生きることはできないことは、頭では分かっているけれども本当にそうなの?って疑問にさえ思うほど、死に対して希薄になったりしてたりもありますよね。
現代社会では、近親者の死の現場などといった、まさに人が死んでしまう瞬間の姿を直に目にすることがないことからも、どうしても死に対して希薄になりがちです。
こうした背景から、あなたは死という概念をわきに置いてしまい生という概念だけにしかスポットを当てないような意識に陥ってしまうのです。
なので、生という概念があたかもそれ自体が独立して存在している意識になるのです。
そこで、死は生とは相いれない生と死は対極にあると考えてしまうことが自然になされてしまうということになります。
そして、こうした考えに陥ってしまうと、生は本来、寿命などの観点からも有限で、すごく貴重なものであるのに、そのことを意識できなくなってしまいます。
くまおうは、この生が有限ですごく貴重なものということを意識できなくなってしまうことで、生そのものを真剣に挑んで行動をすることができなくなり、その結果、生そのものを充実させることが困難になってしまうということをあなたにお伝えしたかったのです。
あなたに何らかのヒントになればよいという意味でお伝えしたかったということになります。
決っして、あなたが生を充実できていないということをお伝えするメッセージではないので、誤解はしないでください。
ここで、話が分かりにくくなったので分かりやすく少しまとめていきます。
生というものは、実は、常にうごめいていて、儚いものなので、いつ生というものが消滅して、すぐさま死というものに変わってしまうかもしれません。
このことは、何も生に対して悲観的になれという意味ではありません。
ただ、生も死も隣り合わせで存在していて、そうした意識を常にもって、積極的にありがたく頂戴した貴重な生を享受することを提案させていただくという意味になります!
例えば、天変地異(地震、津波、火災など)によって、いきなりいつ生が終わるか全く分からないですよね。
もちろん、それらを正確に予測をすることが出来ないし、また不毛なので、そうする必要もありません。
こうして、生は、この一瞬一瞬の今この瞬間にしか存在しないものなので、その事を意識し、踏まえて、今この瞬間を一生懸命に生きるということこそが、生を充実させるということになるのではないでしょうか!!
今日は、生を充実させるということは生を一生懸命に全力で生きるということにはなるのですが、それを分かりやすくするために、かなり長々とお伝えする話になりました。
では、またお会いしましょう!
愛と知恵で溢れる
幸せの向こう側へ
くまおう
コメント