日常生活に不自由を強く感じられるくらいの感覚がなければ、刺激を手にできない!

くまおうのはなし(Facebook)
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今日は、日常生活に対して、不自由を

強く感じられるような感覚になら

なければ、刺激的な日常生活を送る

ことはできないよって、

話になります。

 

 

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えっ、不自由を感じてしまうので

あれば、そこには不満という感情を

引き起こす刺激しか起こらないので、

そんな刺激なら最初からいらないよ

って思ったのではないでしょうか。

 

今日のお話は、そんな不満という

感情の刺激を引き起こすという

ものではありません。

 

おそらく、そう感じてしまう背景

には、あなたの中で、不自由=不満

という構図の考え方があるから

なのです。

 

でもよくよく考えて見ると、

不自由という意味を突き詰めて

行くと分かると思います。

 

ここに不自由とは、何らかの自由を

追求したものの、その結果として

思い描いていた期待した通りの自由を

成就できなかったことに対して、

そこに生じるものになります。

 

だとすれば、不自由を感じる前提

として、先に何らかの自由を予め

思い描いている必要があります。

 

また、この予め思い描いている

自由に対して、それを手に入れる

ために、何らかのアクションを

起こしていればいるほど、

それを手にすることが出来なかった

場合に、かえって不自由をより

強く感じざるを得ません。

 

ということは、自由を手にしようと

いう思いが本気であればあるほど、

余計にそれが手に入れられなかった

場合に、そのショックが大きくて

不自由を感じるので、こうした

大きく不自由を感じる可能性が高い

ほどにまで本気であるこの時点だけ

その一時点だけを見ると、

自由を手に入れられる可能性は高い

とも言えますよね。

 

だって、いい加減な行動をするよりも

本気で取り組んだ方がよりいい結果が

出るとは思いませんか。

 

このことを指して、くまおうは、

不自由を強く感じられるような感覚に

ならなければ、期待通りの自由を

手にするという刺激的な日常生活を

送ることはできないよってことを

言わせていただきました。

 

ここで注意しなければならないのは、

ただ漠然とした抽象的な「自由」に

なれればいいなあ~みたいな他人任せ

の考え方だと、不自由さえも感じる

ことすらできません。

 

たとえ、感じることがあるとしても、

それは今の現状に対する漠然とした

不満の全てだけではないでしょうか。

 

ここでは、些細なつまづきやわがまま

が通らないと言った類いのものが、

その大半を占めているのではないの

でしょうか。

 

~したいけれど、~できなかった

というものを一つだけ挙げ、

仮にそれが叶えばその他のことは

何も不満が生じないと言えるほどの

ものに値しなければいけないのです。

 

そのうえで、それを叶えようと

本気で取り組むという具体的な行動

までも要求されます。

 

そうでなければ、不満というよりは

むしろ、愚痴にしかならないとは思い

ませんか。

 

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抽象度の観点で見やすくすると、

不自由 〉不満 〉愚痴

になります。

 

この点から見ても分かるように、

愚痴の抽象度はかなり低く、ここでは

おそらく行動さえもできていない

状態にある場合に陥る類いのものに

なります。

 

また、不満についても、諦めが入った

意識状態から生じるものになります。

 

不自由という状態を永続的なもの

として認識して初めて、不自由を

不満というものとして感じてしまう

ということになります。

 

というのは、仮に不自由が一時的な

今この瞬間だけであると認識している

のであれば、今回は上手く

いかなかっただけで、

次はどうしていこうという意識状態に

なるからなのです。

 

ようは、この今の不自由の状態を

変えられないと思ってしまっている

ので、あ~もうだめだ~みたいな

不満に満ちた感情が生じている

ということになります。

 

くまおうが言っている不自由を感じる

というのは、強烈に上手く

いかなかったことを感じつつ、

それをほんの通過点として捉えていく

ものへと転換できる意識状態のことを

意味しています。

 

このことを指して、

日常生活に対して、不自由を

強く感じられるような感覚になら

なければ、刺激的な日常生活を送る

ことはできないということを言って

いるということになります。

 

刺激的ということは、つまり、

非日常的なものに触れるという経験が

必要になります。

 

最初がどんなに過激ですごく思えても

それを何度も経験してしまえば、

それはそのうちに日常のものに

なってしまい、もはや刺激的なもの

ではなくなってしまうからなのです。

 

このことからも、日常、つまり

習慣化されたパターン化された

ことをただ繰り返しているだけでは

日常生活において、刺激がなくなって

しまうので、この点にも配慮して

手にしたい自由を追求していくことが

重要にもなってきます。

 

今日は、一見すると逆説的にも思える

ような、不自由を強く感じられ

なければ、刺激的で生き生きとした

日常生活を送ることは難しい

という話になりましたが、

実はこのことが真理に近いという

ことが、分かっていただけたの

ではないでしょうか。

 

では、またね。

 

愛と知恵で溢れる

幸せの向こう側へ

 

 

くまおう

 

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