物事を白黒といった単純化するパターンにした考え方は、セルフイメージを下げてしまう!

くまおうのはなし(Facebook)
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今日は、物事を白黒に分けて単純化

する二律背反的な考え方は、それ自体

自己評価を下げてしまうことになって

しまうよって、話をしていきます。

 

 

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えっ、善か悪か?正か誤か?

成か否か?といった分類をしていく

考え方って、どこに問題があるの

って思ったのではないでしょうか。

 

ものすごく大問題なのです。

 

ここで混同しがちな物事を抽象化

することと、物事を白黒に分類する

ことって、同じことではないのか

について、先にお伝えしていきます。

 

抽象化は、独自の個性のある概念を

作り出すために、あえて便宜上、

ものとものとを区別するためのもの

になります。

 

イメージしやすい例だと、数学で

用いられる集合って概念に近い

感じです、そして、

この集合を一つの塊として

便宜的に作りだす概念を抽象化

するということになります。

 

一方、物事を白黒に分類することは、

二律背反、つまり、ものとものとの

関係性を固定化させることをして

いくものになります。

 

これだと、抽象的で分かりにくいと

思うので、具体的にしていきます。

 

抽象化をするということは、ものに

名前や名称を付けるということになり、

白黒に分類することは、テーゼと

アンチテーゼだけといった両極端な

両者相反するものだけを存在させる

ことになります。

 

ということは、抽象化というもので

あれば、単にものとものとの名前が

それぞれ違うというだけなので、

白と黒の他にもグレーという中間色

の概念も存在することになります。

 

ところが、物事に白黒を付けることは

二律背反なので、そこには中間色の

グレーは存在しません。

 

ここで勘のいいあなたならば、もう

気づいたのではないでしょうか。

 

物事を白黒だけにする単純な思考は

そこには有名な哲学者ヘーゲルの言う

アウフヘーベン(止揚)という概念が

そもそも存在しないということに

なります。

 

このアウフヘーベンとは、ヘーゲル

の弁証法で用いられる抽象概念の

1つで、違った考え方(テーゼと

アンチテーゼ)を持ち寄って

議論を行い、そこからそれまでの

考え方とは異なる新しい考え方を

統合させて帰結されたものを意味

します。

 

この言葉は、現実社会で流布している

玉虫色や歩み寄りや落としどころ

といった言葉のニュアンスに

近いかも知れません。

 

それと同時に、現実を捉えた

的を得ている概念だとも思い

ませんか。

 

だって、人間を例にすると、

「あの人は、善人?悪人?だよね。」

といった二律背反に分類する考え方を

してしまうと、「あの人は、こういう

面では、善だけれど、こういう面では

悪だよね。」みたいな考え方を困難に

させてしまうとは思いませんか。

 

現実的には、人の評価一つ見ても

完全に善人・悪人といった竹を割った

ような人はこの世には、なかなか

存在しないからなのです。

 

ようは、物事って、どう見ても

一面の真理以上でも、以下でも

ありません。

 

物事って、白黒と言ったそんな

単純なものではないということに

なります。

 

仮に、こうした物事を二律背反に

分類して単純化する思考をする

ならば、それはある意味、

思考停止状態を意味します。

 

図形を把握していくために、

X軸とY軸の2つしかない二次元

という尺度を用いていくというのが

まさしく、白と黒の2つしかない

パラメーターでものごとを捉えていく

考え方と同じことを意味します。

 

それって、かなりヤバイですよね。

 

やはり、今いる空間の三次元で

図形を把握していくためには、

X軸とY軸とZ軸の3つある

三次元という尺度を用いていく

というのが、現実に即した捉え方

になるとは思いませんか。

 

これって、現実は三次元なのに、

思考レベル(視点のレベル)の

違いによって、それが二次元にしか

見えないし、またそのことにさえ

気づかないというヤバイ状態に

陥ってしまいます。

 

くまおうは、この思考レベルの違いは

ものごとを判断していく上での尺度

(スケル=はかり)の数の大小に

よって、決まると思っています!

 

例えば、~側面、~観点などといった

色々な複数の視点(パラメーター)

で、ものごとを判断していくと、

より現実に近づく客観的な評価を

可能にさせることにつながります。

 

~ならば、善い。~ならば、悪い。

といった、いわば100点か0点か

という両極端な評価をしてしまう

考え方しかできなくなります。

 

ならば、仮に、それを知らなかった

から頭が悪くて、それを知っていたら

頭が良いみたいな短絡的な発想しか

できなくなります。

 

でもよくよく考えて見たら分かるの

ですが、それを知っているか知って

いないのかは、たまたまかも

しれないし、どこまで知っていたか、

あるいは、どこまでわからなかった

のかについても、全く考慮されて

いないので、一面の真理の範疇でも

かなり精度の低い評価しか

出来てはいなとしか言いようがない

とは思いませんか。

 

これで、混同しがちな物事を抽象化

することと、物事を白黒に分類する

ことについての話はここまでにさせて

いただき、ここからは、がらりと

話を変えて、いよいよ今日の本題に

入っていきます。

 

こうした物事を白黒に分けて単純化

する二律背反的な考え方は、それ自体

自己評価を下げてしまうことになって

しまうことを引き起こしてしまう

トリガーになるということなのです。

 

いきなり論理が吹っ飛んでいて

分かりにくいと思うので、具体的に

分かりやすくお話をさせて

いただきます。

 

日常生活を送っていると、

一日の中で、知っていることと

知らないことに出くわすことの

どちらが多いのかと聞かれたら、

あなたは間違いなく、後者と

答えるのではないでしょうか。

 

もちろん、そうではないと答える

かもしれないのですが、その場合

よほど刺激や変化のない退屈な

生活を送っているということの

証でもあります。

 

それは、かなり危険なことなので、

くまおうは、そこから抜け出す

ことを強くオススメしておきます!

 

このくまおうのぶろぐを読んで

いただいている思考レベルの高い

あなたならば、そうではないという

推測のもとに、知らないことに

出くわすことが多いと判断させて

頂きました。

 

先ほどの話に戻していきますが

物事を白黒に分けて単純化

する二律背反的な考え方をして

しまうと、知らないことに出くわす

度に、頭の中でこう考えてしまい

ます。

 

「わたしが知らないということは、

それは頭が悪いからだ。」といった

まるで、オールオアナッシングでの

0点みたいな評価を自ら下して

しまうということになるのです。

 

また、そうした評価をした

挙句の果てには、

0点=人間としての価値がゼロ

といった全く非論理的な評価でさえ

下してしまうことにも

なりかねません。

 

こんな狭い視野や低い視点だと

まるで木を見て森を見ずといった

感じになるでしょう。

 

日常生活では、知らないことだらけで

あるし、これからもそうなるので、

そんな狭い視野や低い視点での

物事を白黒に分類して単純化する

二律背反的な思考をしてしまう状態で

いると、その結果、自己評価を下げて

しまうことになってしまうことになる

のです。

 

これで、物事を白黒に分けて単純化

する二律背反的な考え方は、それ自体

自己評価を下げてしまうことになって

しまうよってことが分かって

いただけたのではないでしょうか。

 

今日は、がっつりと白黒といった

二律背反的な単純な考え方をすると

いかに危険なのかについて、詳しく

話したので、ものすごくよく分かって

いただけたのではないでしょうか。

 

では、またね。

 

愛と知恵で溢れる

幸せの向こう側へ

 

 

くまおう

 

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